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大学祭とそれぞれの秋

明日から外語祭(100回目)が始まり、授業は1週間休講になる。正味5日間やる大学は少ないだろう、しかも1学年が1000人に満たない小規模大学では。

他大学では大学祭に関わるより、遊んだり休講期間を利用して旅行に出る学生の方が多いようだが、外大の大学祭は、世界各国の語劇と料理(模擬店)が披露され、大学祭に関わる学生の方が多いだろう。

授業が受身のインプットなら大学祭は自主的なアウトプットとして機能しているようだ(外大が当初からそうした教育構想をもっていたのかは定かではない)。

結果、外大生の就活ガクチカでは勢い大学祭ネタが多くなる。それは当然のことなのだが、採用担当者からみると「また大学祭ネタか」と思われてしまうことがある。採用担当者は自分の経験を無意識に一般化して選考基準にしていることが多いのだ。

故に、外語祭をガクチカネタにするならば、まずは他大学と違う外大祭のコンセプトを説明しなければ、採用担当者から「他にチカラを入れたことは何ですか?」とスルーされてしまう。個性を発揮したいなら、絶対的な価値ではなく相対的な価値で主張しないと「自分ファースト」の人と思われてしまう。

*私が知る限り、授業との関係性を考えている骨太企画のある大学祭は三田祭だけだ。他は何処の大学に行っても似たようなイベントばかり。

過日の就職セミナーで、大学祭実行委員で模擬店担当だった卒業生が「今の仕事は駅ナカのショッピングモールの企画で、実行委員のようなものです。まさか本職になるとは!」と笑っていた。
たかが大学祭、されど大学祭、意義あるものにするかしないか、それは考え方次第だ。

しかし間違いないことは、何かを一所懸命にやれば、それは必ず自分の能力になっていること。それは勉強、留学、運動、舞踏、音楽、趣味、恋愛、何でも同じだ。

しかも日本は採用担当者の多くがどんな経験も真剣に聴いてくれる珍しい国だ(採用担当者もそんな大学生活を過ごした人が多いのだろう)。

楽しむということは、全集中で自主的に動くということだ。
学生の皆さん、それぞれに有意義な秋を。

 

「ガクチカは、就活です!」

春からずっとキャリアセンターの業務が激務のままだ。23年卒(4年生)の就活継続フォロー、24年卒(3年生)の夏インターンシップ派遣選抜&案内、低学年(1~2年生)向けのキャリア教育(起業家教育とあわせて文科省がやれとうるさい)、季節労働だったはずの大学就職課&企業採用担当者が、いつの間にか年中仕事に追われるようになった。通年採用どころか通年多忙&全学年対応だ。

これは壮大な雇用創出で、世界に類を見ない新卒就活産業の肥大化である。しかし、構造的要因少子化&採用(就職)活動のステルス化で、そう長く続くとも思われない。現に、何処の大学でも就職セミナーに学生が集まらなくなってきた。業者も大学も受講学生集めに躍起になっている。

しかし、その反動で業界や公的機関では、ますます就活の長期化による仕事減少(節税)防止対策が増える。『今の状況では若者が被害者になる、将来が心配だ』という錦の御旗をたてる。結果、レントシーキング企業の暗躍が終わらない。

*営業の数字があがらないので、営業期間を延ばす(就職活動を長期化させる)のは、某就職企業の常套手段だ。ナビサイトなんて本来、半年で十分なのに年間利用で費用は倍増だ。
もっとも、採用担当者の視点では、ナビサイトの役割は情報提供より、応募者の採用選考プロセス管理が中心になってきている。
⇒ステルス化の原因

こんな「作られた就活」をさせているのなら、採用担当者の「ガクチカは?」という質問に、学生には「就活です!」と回答させたい。昔から言ってきたことだが、冗談ではなくなってきた。今の就活にかける学生の時間を、勉強や部活や社会活動にかけさせたら、若者は飛躍し、「ガクチカ」も充実するだろう。それが本当の就活のはずだ。

『コロナで失われた2年間で学生に「ガクチカ」を求めるのは酷だ』という耳触りの良い業界人の言葉もよくきく。しかし、だからこそ、環境のせいにする若者と、そうでない若者の差が明確にわかる。

経営学における環境とは、自分では如何ともし難いもののことだが、そこでどうするかを考えるのが経営だ。心理学的には最終的にはfight-or-flight (または立ちすくんで動けなくなる自己防衛)だ。環境は変えられないので、どうするか、どうしようもないなら逃げる、それを若者に求めるのを、高齢者の説教というのか。

しかし、それは大学キャリアセンターや企業採用担当者にもいえることだ。いつまでもマスク社会に付和雷同して「仕事アリバイ」を作り続ければ、いずれは「ゆでガエル」だ。

若者に期待していることを、大人が言動で示せなければ世界はメルトダウンする、大人が本当に高齢者になり若者ではなくなる。危機の今は、「アリバイ作り」の仕事から脱却する最大の機会のはずだ。

第429号:プロフェッショナルとは

就活生から「就職先が決まりました!」と連絡があった。年末ギリギリだが、来年の社会での一歩が決まったことは喜ばしい。
この就活生は春から、ずーーーーーっとキャリアセンターにやってきていて、おそらく利用回数と利用期間ではダントツではなかろうか。ここまで苦労したことには様々な理由があるが、社会で求められるのは、大学偏差値や勉強だけではない、ということを改めて思い知らされた。
大学院時代の研究テーマでもあったが、この大学と企業とのミスマッチは日本固有の課題だろう。日本の新卒採用が問題だ、という言説が増えているが、それは元々、大学と社会が連携して「半完成品」としての人材を、社会の体験によって育てていくシステムで、世界では類を見ない長期の社会人育成だ。
ところが、企業側にその余裕がなくなり、大学側はその変化に対して鈍感で、結果的に日本社会の若者を育てる環境がどんどん悪化して、社会が若者育成力を失ってきている
企業を父親、大学を母親と考えたら(こうしたメタファーも最近は使いにくくなった)、お互いに責任があるのに、結果をとらされるのは子供、という構図になる。こんな社会で夫婦が子供を作り、育む気になるだろうか、養子(中途採用)に走りやすくなるだろう。いや、それ以前に結婚する気になるのか。そして少子化がますます加速する。社会学で良く言われる言葉が浮かぶ。
子供のできる唯一の抵抗は、生まれてこないことである」。
そんな中で、キャリアセンター職員の役割は、ERまたは産婆さんだと考えている。快適なところから、世の中の試練の中に生まれ落ちる支援だ。学生は社会人としては胎児のようなもので、やりたいことなど最初からわかっている者はいない。
「やりたいことは貴方の中にある」魅力的かつ危険な言葉だ。
だからこそ、大学では授業を中心に、それを活かすためのキッカケ作りや、課外活動、国外留学活動を支援する。しかし、これも気をつけないと、環境を全部用意しすぎて、自立できない「生徒」を育ててしまう。
年末最後の在宅業務日にあたり、今年の振り返りと来年の戦略(キャリア教育と支援の融合)をつらつら考えている。これまで見えなかった問題が見えてきたのは、コロナ禍と同じで、やっとデータがとれ、わからないものとわかるものがわかってきた。それは、やるべきことと、やらざるべきことの見極めだ。
既存の仕組みを止めるのは意外と難しい。
それは経営者やリーダーでなければできないことだ。
現場の意見を聞くのは良いが、自発的に判断させることではない。
今回の就活内定連絡を貰って、やっと肩の荷が下りたと感じると同時に、コロナ禍から退院した方を見送る医療関係者のことが浮かんだ。こんなストレスをずっと春から続けてるのは想像を絶することだ。が、社会に戻せたやり甲斐(責任感か)があるから続けられるのだろう(しかし、それも限界だと思う)。
医療機関交通機関教育機関も、およそ社会インフラで働く人の根底にあるのは自分のためではなく、誰かのために身を尽くすことだ。
   プロフェッショナルとは
私の今のこたえは、
自らの専門性を高め、他者のために使う者
である。
それを就活生にも伝えている。
大学生なら、やりたいことより、やりがいことを探せ
自分のためではなく他者のために動くことで、やり甲斐は生まれ、それはいつかやりたいことになっているだろう。自分の好きなことを相手に押しつけるのは自己満足だ。「笑顔」や「勇気」は与えるものではない。相手に働きかけた結果だ。大学というのは、そうした他者・社会の期待に応える存在であるために、切磋琢磨する場所なのだから。
なので、その期待をもって入学できなかった1年生には非常に申し訳ないと感じる1年だった。来年は「失われた1年」のリカバー策も実行したい。
しかし、職員の仕事は時間管理が中心だが、教員の仕事は内容管理が中心だ。兼任させられているということは、大学経営者としては最高の使い勝手だ。時間管理されて裁量労働は許されず、成果を求められる。ますます医療関係者の気持ちがわかる。(😭)
こんなことを思いついて書いているから、全然、仕事が終わらない。(~_~;)

第428号:キャリアセンターは良い企業のプロデューサー

大学キャリアセンターでは、企業や官公庁を招いてのセミナーがピークになり、毎日様々な業界や企業の多様な話しを聴くが、一般のニュースでは知り得ない情報が面白い。
良く知っていた企業が、そんな事業やビジネスモデルになったのか!と発見するのは特に楽しい(そうして変化できる企業や社員には共通点がある)。
逆に、いかに学生が世の中を知らずに就活しているかがわかる。
ある意味、日本の新卒採用の凄いところだ。世界に冠たる20代労働者の低未就業率の秘密だ。
先日は「何処の企業も魅力的で決められません。軸はどうすればよいですか?」という相談もあったが、聴いてみると表層的な憧れの段階だった。企業人は「自分の頭で考える」人が求められる、と言う。それは、もっと具体的にいえば、自分の考えで決断して行動できる(自分の人生の責任がとれる)ということだ。
軸なんかなきゃないでいいんじゃね?
社会や世間を知らずに立てた軸なんて、軸じゃなくて自分で自分に打ち込んだ楔だろ。動けなくなるよ。試行錯誤して回っているうちに、自然に見えてくるのが軸だろう。多くの良い企業・人材の共通点が見えてくるように。(^0^)
キャリアセンターの仕事は学生の就職支援が中心だが、良い企業を学生に教えることは採用活動の支援にもなる。つまり、学生と企業の双方のプロデューサーだ。
そこで思い出したのは、商社マン時代、米国半導体の代理店として営業していた頃のことだ。駆け出しの頃は、顧客側の見方・味方で、日本(クライアント)の要求を米国(メーカー)に求めることだと思っており、強力な要求やクレームをつけ、仕事ができるようになったと思っていた。
しかし、時間が経つにつれ、米国(メーカー)側に触れる機会も増えて、向こうの主張もわかるようになってきた(日本法人経由だけでみていた頃はわからなかった)。
そして思い至ったのは、商社マンはお客と仕入れ先双方のエージェントだということだ。両者をフェアにみて相互のハッピーを目指す仕事だということだ。それはできる商社マンに共通の理念だと思う。
代理店とは、双方の代理を行う業だ。
ただのメッセンジャーではなく、相互にハッピーな人間関係を創ることだ。全部、最初に就職した会社で学んでいた。
そう考えると、良い企業・仕事を仕入れて学生に教える、良い学生を育てて企業に教える、教育と支援の両立採用活動と就職活動の両立は可能になるはずだ。商社機能とメーカー機能の融合が理想だ。
(逆に、有名でも紹介したくない大企業、高偏差値でも紹介しがたい学生も居る、これはどうしたものかな。ここで相互にマッチしてくれたら助かるのだけど。笑)
anyway, 20代に毎日終電を追いかけた日々は、今でも役に立っている。あの頃は残業手当なんてなかった(あれは違法だった)けれど、仕事が楽しくて仕方なかった。
飛ぶように日々が過ぎていく。文字通り、電車を追っかける師走の日々だ。・・・そして、今日もなんとか電車に追いついた。まさか今でも走っているとは。(^0^)

第427号:無人島では「個性」は生まれない

活相談で「個性」を発揮したいという学生は多い。自分らしさというか、自分の持ち味を発揮したいという気持ちは分かる。
だが、言われてみて気づくものだが、「個性」は社会があって初めて生まれる言葉(概念)だ。無人島に1人でいれば、「個性」は生まれない。
更に、職業にする、プロになるというなら、もう一つ視点を上げなければならない。それは、他者(回りの人)をよく見て自分の「個性」が何かに気づくことだ。「他者を意識せず、自分らしくありたい」というのは、そうして視野の広さをもってから言うべき言葉だ。
最近、こうした子供が増えている気がするのは、大学受験の勉強の仕方にあるのかもしれない。以前の学習塾は、大教室で講師の解説を聞く「講義型」の授業が多かったが、少子化のせいか、「個別指導型」が多くなった。
家庭教師が自分のためだけにカリキュラムを考えてくれるのは良いけれど、逆に自分にあった勉強方法を自分で考える力を使わなくなるから、知らぬ間に「自主性」は必要なくなるし「個性」も発揮されない。
見かけは、大教室型の方が個性のない子供を大量生産しているようだが、大教室には「お目こぼし」「潜り込み」「敵前逃亡」「代返」等々、逃げ道にあの手この手の余裕があったと思う。
オンラインの授業や就職セミナーばかりになり、学生の行動がわりと正確に定量的に把握・分析できるようになって逃げ道がなくなったせいか、今年度は極端に履修登録数・参加希望者数が減っている。
人の成長の仕方も教え方も、多様であった方が世の中は面白いと思うし、その方が「個性」が発揮された社会だろう。今までのあり方を全否定して子供の承認要求に応えてばかりでは、結局、みんな同じタイプになって「個性」を失った社会になる。
結果、「私は褒められて伸びるタイプです!」と堂々と「個性」を主張するようになる。
人類の知恵を一瞬で共有できるIT社会は便利だが、人が画一化する(洗脳される)のもたやすくなる。それはとても「生きづらい」、つまらない社会になると私は感じてしまう。

第426号:個性(自分らしさ)を発揮するために

外語大に来てここの学生を育成するために、改めて「語学」という学問を囓っているが、なかなか楽しい。
英語では、「I」だけだが、日本語では「私」「俺」「手前」「自分」「小生」「吾輩」「あたし」・・・と多様にあることは中学生でも知っている。それが文化心理学による「相互独立的自己観」と「相互協調的自己観」による、西欧と日本(アジア)との違いと知った。
それがidentityという言葉の有無にもなる。
言語についても、グローバル言語ローカル言語があって、その言語の設立背景を探ると、英語というのはかなり特殊なものだとわかった。
東京外語大が「言語学部」を、「言語文化学部」と「国際社会学部」に改組した理由がわかって、更に新設された「国際日本学部」の意義も見えてきた。
新しい大学で授業をする時、最初に必ずやることは、その大学のルーツを探ることだが、これはいつも思わぬ発見があって楽しい。
20代に法学から学びはじめ、社会人になったら、物理学、電気工学に寄り道してから経営学、経済学、社会学ときて言語学に辿り着いた。
今までの私の学問の学び方は、どちらかというと理系(理論)型のスタンスだったが、ここにきて言語学(これも文系の学問では理系的)になり、多分、これから文学・文化人類学に向かうだろう。(最後は哲学か宗教か天文学かな。)
なんのことはない、初めての学生時代に履修していた一般教養ばかりじゃないか。あの頃は学んだのではなく、単位のためだけにとっていただけが、それでもかすかに知識は残っていて、今になってふっと意味が見えてくる。選択必修でなければ履修していなかったなあ。早く専門科目を学びたいのに無駄だなあ、と思っていたのは間違いだった(というか必修科目の意味がやっとわかった)。
当たり前のことに今頃気づく。
インプットしていないものはアウトプットできない。
「いつかわかる」は今だったのか。(^0^)
こんな学び方のキャリアを、来春は学生に教えてやりたい。この大学を目指す高校生にも教えてやりたい(是非、わかって入学して欲しい)。
実を言うと、大学進学で最初に考えていたのは建築学科で、次が外国語学部や言語学科だった。時代が巡ってまたスタートラインに立つのかな。多分、若い頃より深く早く学べるだろう。
読書が楽しくて仕方ない通勤電車にて。
(でも、こうして書いていないと寝落ちしてしまいがち。)
芸術、読書、運動、快食 etc.それぞれの良い秋の週末を。(^0^)

第425号:採用担当者もリストラされる

来春の就職活動に向けて大学でのガイダンスの準備に追われている。コロナ禍といっても、業界全部がわるいわけではないことが、企業の採用意欲の差でわかる。
マスコミ報道はいつも一般的な平均値だから、そんなものに右往左往されるようなら、厳しい言い方だが、大学で何を学んでいるのか。言い方を変えれば、大学生ならマスコミの少し先や少し奥にあるものを見る眼をもつことだ。そうした基本的なアカデミックスキルを教えていない教員の責任も大きい。
いや、大学教員は昔からそんなことを教えていたのか、と考えると今とそんなに変わらない。昔は大学生の学力と自尊心に助けられていた。変わったのは大衆化した大学の学生の方だ。そして、少子化のいま、今後、この傾向はますます続くだろう。
しかし、今のままでは大学進学率もこれから低下すると思われる。大衆化大学を支えたミドル層が低迷し、結婚も出産も減るデフレスパイラルに入っているからだ。それでも、循環型変化構造的変動を見極めて戦略を立てるなら道は拓けると思う。
就職不況に話しを戻すと、こんな時にいつも出てくるのは、過去50年振り返って見ると・・・たいしたことはない、歴史は繰り返す、という論だ。私はこれはこの20年のITと人口減少という基盤構造が変動しているので、戻ることはないと思う。
航空産業の新卒採用停止が報道された。空を目指す学生には気の毒だが、冷静に世界の状況を見れば、あまり楽観的には見られない。今の職員を守るだけでも精一杯だ。(しかし、V字回復は起こりやすいと思う。そうした急降下急上昇に対応してきたのも航空業界の雇用戦略だった⇒結構、勉強になった)。
私が気になるのは、大規模な新卒採用が停止すると、企業人事の採用・能力開発人材もリストラされることだ。それはバブル崩壊の時も、リーマンショックの時にも見てきた。結果、企業の人事からできる人材採用・育成のプロが独立企業・転職する。そして弱体化した企業人事をクライアントにする。
それが人材ビジネスが進化してきた過程だ。企業人事よりも人事コンサルの方がどんどん強くなっていく。
翻って、大学教育はどうか。
大学教育は社会のこうした状況に対して何ができるのか。
少子化で大事に育てられ、いつまでも月夜見にかかって夢をみせられ、承認要求が強くなり、学び取るチカラと自己責任という言葉を失っていく。
来期の構想を考える時期、現実離れの妄想や空想に耽る帰宅電車。これが一番の居眠り防止策になる。
そういえば、小学生の頃から空想ばかりして、考えの海を泳いでいた。あの頃は空も飛べたし七つの海も渡れる気がしたね。
いまはそんな空想も、アニメが与えてくれるのか。早く気づかないと、無限列車に食べられちゃうぞ。
全集中、夢の呼吸。(^0^)

第424号:課題型授業は究極の自主性を求める

秋学期に入り、またオンライン授業が始まったが、ブランクがあると勘を取り戻すのに時間がかかる。特に新しいスキルは、繰り返さないと定着しないが、オンライン授業は試行錯誤の連続だから、定着する前に修正がかかりセオリーに至らず、ノウハウの積み重ねだ。
学生にいろいろと他の授業の様子を聞いてみると、教員の指導スキルを指摘する者も多い(ゴメンねー。しかし、一度、こっちに来てみてやってみろよ、と言いたい)。教員にもいろいろあって、教育やITの専門家もいれば、まったくダメな教員も、いる。でもね、全員無免許運転だと知ってるか?大学教員には教職免許など求めらない。
特に非常勤講師は悲惨だ。大学のサポート(賃金待遇含)での正規教員との格差があるにも関わらず、同じものを求められる。複数の大学でやっていると、ツールもバラバラだ。同じ講義内容を他大学で行うことによって生産性をあげて何とか生計を立てている方は本当に気の毒だ。同じ講義をいきなり異なる3つの言語でやれ、と言われているようなものだ(正規教員と同一労働同一賃金にして欲しい)。
学生から非難囂々の「課題型授業⇒課題を紙1枚で出してレポートを求め、教員不在」にしたくなる気持ちもわかる。そんなものに高い授業料を払えるか!という学生に聞きたい。「君達はいつからそんなに学習意欲があがったんだ?」
偏見だが、課題型授業だって見方によれば究極の自主性自分で考えるチカラを求める教育だ。その対応の仕方だって無数だ。がっつり読書して仕上げるも良し、適当にやって稼いだ時間を他の勉強や部活や趣味にあてたって良いし、何をするにも自由だ。それが「学生」というものだ。学び方まで全部求めるのは「生徒」だ。
いつかわかる。「コロナ禍には、自由な時間があったなあ」と。
就職したら同じことを気づかされるだろう。社会に出て働くと、如何に学生時代に時間があったのか、と。「戻っておいて私の時間」そんな歌が昔にあった。
徐々に以前の形態に大学は戻っていくだろう。でも、この厳しい時代の体験は無駄なことばかりではない。自分を取り戻せる機会も多い。昨晩の講演でも話した。「悲観は気分、楽観は意志」。そんな先哲の知見を紐解くのも今だからできることだ。
そして、線路は続くよどこまでも。

第423号:「どうなるか」より「どうするか」

とりとめもなく考えた。

来年卒(業界では21卒という)の学生の就活も終わらないままに、再来年卒の学生(業界では22卒という)向けの就活イベントが始まってきた。「夏インターンシップ」という名ばかりの早期の囲い込みが年々盛んになっている。

就活は「卒業前の半年に行うもの」というのは、完全に昭和の昔話になり、今は上記の二世代を同時に相手にすることが、企業採用担当者でも大学キャリアセンターでも当たり前になり、誰も疑問に思わなくなってきた。これもコロナに負けない世界に冠たる新卒就職市場で、世界から見れば謎の現象だろう。

企業採用担当者の会社説明を聴講していると、その内容が千差万別で面白い。感心するほど面白いものもあれば、ネットで見ればわかるものばかりで、来なければ良かったというものものある。採用担当者には「最近の学生は個性がない」と言う方も居るが、意外と世間が見えてなくて、自分自身が他社との相対評価にさらされて没個性と見られていることに気づいていない採用担当者も居る。

学生との質疑応答での定番の質問に「御社の求める人材は?」がある。以前は「コミュ力」「巻き込み力」等々、滔々と語られていたが、最近は「特に求める人材は設定していません」という回答する採用担当者が段々と増えて来た。

おそらく、学生の言う「求める人材」というのは「どうすれば内定者になれるのですか?」という面接での『正解』を求めていることに気づき、嫌気が差してきたのだろう。セミナーをやればやるほど、学生がそれに合わせて染まってくるのが嫌なのだ。求めているのは「生徒」ではなく「学生」なのだから。

そもそも論で語るには、
今の社会も大学も学生もあまりに多様化してしまった。

しかし、本当に多様化しているのか?と自問すると、逆にネット時代になって均一化がますます進んでいる様な気がしてならない。それは昔から気になっている「高度情報化時代」ではなく「高度受け売り化社会」になったことだ。

この多様化と均一化が同時に同じ人間の中に存在しているのが判断を難しくする。思考や思想は大差ないのに、自分の都合は様々だから、そんな人とは益々、付き合いににくくなってくる(そういう人になれたら幸せだろうな、と思う事もあるが)。

在宅勤務では、自分と向き合う読書の時間も取れるが、逆にネットに張り付いている人も居る。自分を取り戻せる時間が、逆に自分を失っていることになった人も居る。

4月からずっとコロナ対応で走り回っていたが、早いもので7月、夏に向かう節目だ。自分はこの3ヶ月、何を残せてきたのか、これからどうなるのか。

いや、とある好きな企業のフレーズを呟きながら頑張るとしよう。
どうなるか」より「どうするか」だ。

第424号:対面&オンライン授業と採用選考

大学の対面授業がすべてオンライン授業に切り替わり、リアクションペーパーも手書きからキーボード(オンライン)に切り替わった。

以前、私の授業を受けた学生は、「それは先生の授業の看板がひとつなくなった(今年の学生は楽になった)」と思うだろう。私の授業でのリアクションペーパーは、求められる量も質も相当にハードだった。何より、他の授業で標準的にある、授業最後の10分での記入時間というがなく、授業中に集中して書き上げないといけないから(授業後の提出は基本的に認めない)。フィールドワークでICレコーダー無しにメモを取る訓練のようなものだ。90分があっという間に終わる。

この二つ(対面&オンライン)は、育成する能力の違いとして捉えており、前者(対面)はリアルタイムに記録・発想する能力で、後者(オンライン)は熟考して再構成・表現する能力だ。だから、後者は手書きやスマホで書くのは非常に効率が悪い。

どちらも社会では必要な能力だが、今の学生はリアルタイムのコミュニケーション機会をどんどん奪われて、音楽で言えばアドリブ演奏ができなくなった。それは失敗を恐れていて、失敗を経験と捉えて応用力を高める機会を失っているということだ。

故に、前者を優先している。後者は他の授業でも学べる力だろう。この授業だけで考えずに、学生が受けるの他の授業を考えて設計することが大事だと思う(この授業でしか学べないことにこだわっている、これは私の性分だ)。

翻って、私の採用担当者時代は、この二つ(GDを入れると三つ)の能力をそれぞれ測定していた。採用選考手法は、単なるバリエーションではなく、評価する能力の違いだ(同じ手法を異なる時間・評価者で行うのは、評価の深掘りとバイアスの修正だ)。

なので、就活で言えば、前者(対面)は面接で、後者(オンライン)はESである。実際、この二つの選考手法は、質問は同じでも、採用担当者の見ている能力は異なる(はずだけど、そこまでわかっている採用担当者はどれだけいるのかは疑問)。

私の授業での好成績者は、おそらく殆どの企業において、初期選考を省いて人事部長面接から入れても大丈夫だと思う。授業を通じての能力開発と評価は、企業採用選考とは比較にならないと自負している(採用選考は時間がないから仕方ない)。就活結果もそれを物語っている。なので、ドロップアウトする者も少なくない。

故に、コロナ前の私の授業では、前者(手書き)はリアクションペーパー、後者(キーボード)は数回のショートレポートで成績評価していた。書き方も、前者は時系列型で後者は因果律型で書き方の違いも理解させていた。

更に、グループ・ディスカッションGD)では異なる能力(組織における対人スキルとグループダイナミクス)を評価し、期末試験ではそれまでの知見を総動員して、指定された時間で構造的な答案を仕上げる力を総合的に見ている。

この授業形態になるまで数年かかっているが、改めて振り返ると上記の通り、私の企業時代の採用選考スキルがベースになっているとわかって感慨深い。

今回のオンライン授業だけの環境は、過去に経験したことのなかったものだが、育成する能力の(比重の)違いだと考えれば、良い授業改善の機会である。新しいノウハウが相当に得られた(京都大学のMOSTで学んだことが、こんなに実践で使えるとは。コロナがなければ使わずに忘れてたかも)。

生き残る者は強いものではなく、変化したものである、というダーウィンが言ってない言説も、ダーウィンを聞き齧った人が言いたくなるだろうなあ、と思う(これは事実と意見の違いを知る良い例だ。今度、授業で使おうか。)。

・・・そして授業(の進化・深化)はまだ続く。