
第429号:プロフェッショナルとは

とりとめもなく考えた。
来年卒(業界では21卒という)の学生の就活も終わらないままに、再来年卒の学生(業界では22卒という)向けの就活イベントが始まってきた。「夏インターンシップ」という名ばかりの早期の囲い込みが年々盛んになっている。
就活は「卒業前の半年に行うもの」というのは、完全に昭和の昔話になり、今は上記の二世代を同時に相手にすることが、企業採用担当者でも大学キャリアセンターでも当たり前になり、誰も疑問に思わなくなってきた。これもコロナに負けない世界に冠たる新卒就職市場で、世界から見れば謎の現象だろう。
企業採用担当者の会社説明を聴講していると、その内容が千差万別で面白い。感心するほど面白いものもあれば、ネットで見ればわかるものばかりで、来なければ良かったというものものある。採用担当者には「最近の学生は個性がない」と言う方も居るが、意外と世間が見えてなくて、自分自身が他社との相対評価にさらされて没個性と見られていることに気づいていない採用担当者も居る。
学生との質疑応答での定番の質問に「御社の求める人材は?」がある。以前は「コミュ力」「巻き込み力」等々、滔々と語られていたが、最近は「特に求める人材は設定していません」という回答する採用担当者が段々と増えて来た。
おそらく、学生の言う「求める人材」というのは「どうすれば内定者になれるのですか?」という面接での『正解』を求めていることに気づき、嫌気が差してきたのだろう。セミナーをやればやるほど、学生がそれに合わせて染まってくるのが嫌なのだ。求めているのは「生徒」ではなく「学生」なのだから。
そもそも論で語るには、
今の社会も大学も学生もあまりに多様化してしまった。
しかし、本当に多様化しているのか?と自問すると、逆にネット時代になって均一化がますます進んでいる様な気がしてならない。それは昔から気になっている「高度情報化時代」ではなく「高度受け売り化社会」になったことだ。
この多様化と均一化が同時に同じ人間の中に存在しているのが判断を難しくする。思考や思想は大差ないのに、自分の都合は様々だから、そんな人とは益々、付き合いににくくなってくる(そういう人になれたら幸せだろうな、と思う事もあるが)。
在宅勤務では、自分と向き合う読書の時間も取れるが、逆にネットに張り付いている人も居る。自分を取り戻せる時間が、逆に自分を失っていることになった人も居る。
4月からずっとコロナ対応で走り回っていたが、早いもので7月、夏に向かう節目だ。自分はこの3ヶ月、何を残せてきたのか、これからどうなるのか。
いや、とある好きな企業のフレーズを呟きながら頑張るとしよう。
「どうなるか」より「どうするか」だ。
大学の対面授業がすべてオンライン授業に切り替わり、リアクションペーパーも手書きからキーボード(オンライン)に切り替わった。
以前、私の授業を受けた学生は、「それは先生の授業の看板がひとつなくなった(今年の学生は楽になった)」と思うだろう。私の授業でのリアクションペーパーは、求められる量も質も相当にハードだった。何より、他の授業で標準的にある、授業最後の10分での記入時間というがなく、授業中に集中して書き上げないといけないから(授業後の提出は基本的に認めない)。フィールドワークでICレコーダー無しにメモを取る訓練のようなものだ。90分があっという間に終わる。
この二つ(対面&オンライン)は、育成する能力の違いとして捉えており、前者(対面)はリアルタイムに記録・発想する能力で、後者(オンライン)は熟考して再構成・表現する能力だ。だから、後者は手書きやスマホで書くのは非常に効率が悪い。
どちらも社会では必要な能力だが、今の学生はリアルタイムのコミュニケーション機会をどんどん奪われて、音楽で言えばアドリブ演奏ができなくなった。それは失敗を恐れていて、失敗を経験と捉えて応用力を高める機会を失っているということだ。
故に、前者を優先している。後者は他の授業でも学べる力だろう。この授業だけで考えずに、学生が受けるの他の授業を考えて設計することが大事だと思う(この授業でしか学べないことにこだわっている、これは私の性分だ)。
翻って、私の採用担当者時代は、この二つ(GDを入れると三つ)の能力をそれぞれ測定していた。採用選考手法は、単なるバリエーションではなく、評価する能力の違いだ(同じ手法を異なる時間・評価者で行うのは、評価の深掘りとバイアスの修正だ)。
なので、就活で言えば、前者(対面)は面接で、後者(オンライン)はESである。実際、この二つの選考手法は、質問は同じでも、採用担当者の見ている能力は異なる(はずだけど、そこまでわかっている採用担当者はどれだけいるのかは疑問)。
私の授業での好成績者は、おそらく殆どの企業において、初期選考を省いて人事部長面接から入れても大丈夫だと思う。授業を通じての能力開発と評価は、企業採用選考とは比較にならないと自負している(採用選考は時間がないから仕方ない)。就活結果もそれを物語っている。なので、ドロップアウトする者も少なくない。
故に、コロナ前の私の授業では、前者(手書き)はリアクションペーパー、後者(キーボード)は数回のショートレポートで成績評価していた。書き方も、前者は時系列型で後者は因果律型で書き方の違いも理解させていた。
更に、グループ・ディスカッション(GD)では異なる能力(組織における対人スキルとグループダイナミクス)を評価し、期末試験ではそれまでの知見を総動員して、指定された時間で構造的な答案を仕上げる力を総合的に見ている。
この授業形態になるまで数年かかっているが、改めて振り返ると上記の通り、私の企業時代の採用選考スキルがベースになっているとわかって感慨深い。
今回のオンライン授業だけの環境は、過去に経験したことのなかったものだが、育成する能力の(比重の)違いだと考えれば、良い授業改善の機会である。新しいノウハウが相当に得られた(京都大学のMOSTで学んだことが、こんなに実践で使えるとは。コロナがなければ使わずに忘れてたかも)。
生き残る者は強いものではなく、変化したものである、というダーウィンが言ってない言説も、ダーウィンを聞き齧った人が言いたくなるだろうなあ、と思う(これは事実と意見の違いを知る良い例だ。今度、授業で使おうか。)。
・・・そして授業(の進化・深化)はまだ続く。
とある有望な学生からのメッセージ(一部抜粋)。
大学生(若者)はこうでなくては!と深く感動した。
「今年度は休学することにしました。
経済的影響もありますが、何より最後のキャンパスライフをこの状況で過ごしたくはなかったので、以前から考えていた休学に踏み切りました(^ ^)
早速、島根県の会社で4月から働いています。5月いっぱいは島根でフルタイムで働くので、また色々と経験出来そうです。
時間はこの先沢山あるので、今年度は色々やりたい事をしてみる予定です!」
このご時世、不安なく過ごせる人はいないだろう。
大学で就活相談を聞いていると、この先「どうすれば良いのか?」というものが多いが、今回の状況は過去にも例のないことだから、相談される側も明確な回答はもっていない。
しかし、「不安」への対処法は大学、というより過去の人智にいくらでもあり、誰でもそこから道を考え出すことはできる。
その答えは人によって異なるが、まさに若者が主張する「個性」や「多様性」の発揮機会だ。それを大事にして欲しいと言う若者の多くが「正解」を求めて「不安」になっていることに気づいているのだろうか。
挫折経験がない(本人は気づいていないことが多いが、自分の壁を越えたことがない)という若者にはチャンスともいえる。
心理学では「不安」と「恐怖」は違うと教えているはずだ。
「不安」は対象が不明で、その相手は内部(自分)だ。
「恐怖」は対象が明確で、その相手は外部(社会)だ。
いつも授業でしつこく言っている持論だが、「不安」には「知識」「仲間」「行動」が有効だ。人間の脳は悩む(不安)と考える(対策・行動)は同時にできない。
極論すれば「不安」というのは余裕のある人の感情だ。
学生だって、期末試験前日になれば「不安」になっている暇なく、教科書で「知識」を深め、「仲間」のノートをコピーし、必死に学ぶ「行動」に出ているはずだ。
今回も始まったばかりの講義で話した。
『大学とは、どんな問題に直面しても、
なんとかできる
強い意志、思考方法、対応力、
それを養う挑戦の場である。
失敗が財産になる貴重な場である。
故に、大学生に失敗はありえず、
発見と経験があるのみ。
本当の失敗は、何もせず諦めることだ。』
それを学ぶために、法学も文学も理学も工学も卒論もある。
たかが就活やコロナ如きに負けるほど、人類は弱くない。
(話しが大きくなってきたな・・・。)
こうした授業を受けた学生が、冒頭の様な思考と行動にでてくれたなら、教員としては至福の至りだ。キャリア教育の本当の成果とは、成績表の結果などではなく、その後の人生に大学の学びを発揮できたかだ。
更に、その行動が、自分のため、他者のため、社会ためだ、と考えてくれたなら、思い残すことはない。
ということで、今年の就活が不安なら、いっそのこと止めてしまっても良いだろう。来年の就活は(おそらく)V字型に回復するはずであり、その際、このような行動を取れた学生が低い評価をされるはずがない。
(もっとも、何もせず引き籠もって低俗なTV番組が言う「コロナ疲れ」「コロナ太り」になっていたら論外だ。)
今こそ、若者の根拠の無い自信と行動に期待したい。
「俺たちの旅」とか再放送しないかなあ。
観たい名作ドラマがたくさんあるのに。(^0^)
在宅勤務には20年近いフリーランス業務で慣れているが、常時ネットの向こうに誰かが居るのと居ないのでは、ちょっと感覚が違う(自宅でもネクタイをしてZoomに向かうとか)。日本中が在宅勤務パンデミック状態になっており、こうした経験についても日本社会は学び、対策を身に付けて行かなければ。
コロナの姿がだんだんわかり、長期戦が見えてきた今、人類が学ぶべきはウィルス対策と共に生活対策だ。長い人類の歴史の中で、一般の人がネット環境に対峙する様になったのはたかだかこの30年だ。冷静に考えれば、それが如何に便利で異常で難しいことだとわかる。怖いのは、30年しか生きていない人(生まれながらのデジタルキッズ達)は、この30年が人類の生き方のすべて(普通なこと)だと思うことだ。
そうしたことを、時間に追われず考えられる若者の時間・空間というのが大学というものだ。過去の文献にそうした人類の難題に対する知見は無数に保管されている。最近の焼き直しばかりの、一見わかりやすい表層的な流行本などではない、『「本」物』の本を読むために、この数ヶ月や1年をかけても良いではないか。長い目で見れば、絶対に無駄ではなく、寧ろ学生時代でなければできないことだ。
*多くの大学で殆ど対処されていないのが、図書館の資産をいま如何に止めずに、ネット上で自由に使えるようにするか、という知見だ。著作権対策、技術対策等々、これらをクリアする術が得られれば、コロナ後にも続く素晴らしい文化伝承が出来るはずだ。
(手前味噌だが、東京外国語大学の付属図書館では、学生に対し郵送での対応を他大学に先んじていち早く決めた。)
コロナというものは、そうした人類の試練だと見えて仕方がない。キリスト教が生まれたとき、イスラム教が生まれたとき、それは堕落した人間社会を修正する人類の生活対策だったとも考えられる。
*イスラム教って、宗教というよりライフスタイルのようだ。アラブのプライド高き砂漠の民の質実剛健な点は武士道と似ていて、それが日本と遠く離れた彼の地とのシンパシー(共感)なのだろう。祭り(遊び)の要素が少ないから日本では流行りにくいのだと思う。受容性の高い日本人でもラマダンはやりたくないだろう。欧米では逆に生活に遊びが多いから、質素倹約が新しい文化(生活対策)に映って流行るけど。
授業だって講義をただオンラインにするだけではつまらない。前例がないんだから試行錯誤が最高の武器であり、それを失敗ではなく経験と前向きに考えられる者が本物であり、新たな歴史を作る。(ただ、世間一般に見えるのは「流行本」だけどね。それに気付けるのが大学で学んだ者と、そうでない者との違いなのだ。)
結果、以前のやり方に「加えて」新しいやり方が手に入る。新しいやり方になったら、過去の(良い)やり方を否定するのは「知識・体験」を「教養」にできないということだ。
てなことをつらつら考える雨の日もまた、いとをかし。(^0^)