第424号:課題型授業は究極の自主性を求める

秋学期に入り、またオンライン授業が始まったが、ブランクがあると勘を取り戻すのに時間がかかる。特に新しいスキルは、繰り返さないと定着しないが、オンライン授業は試行錯誤の連続だから、定着する前に修正がかかりセオリーに至らず、ノウハウの積み重ねだ。
学生にいろいろと他の授業の様子を聞いてみると、教員の指導スキルを指摘する者も多い(ゴメンねー。しかし、一度、こっちに来てみてやってみろよ、と言いたい)。教員にもいろいろあって、教育やITの専門家もいれば、まったくダメな教員も、いる。でもね、全員無免許運転だと知ってるか?大学教員には教職免許など求めらない。
特に非常勤講師は悲惨だ。大学のサポート(賃金待遇含)での正規教員との格差があるにも関わらず、同じものを求められる。複数の大学でやっていると、ツールもバラバラだ。同じ講義内容を他大学で行うことによって生産性をあげて何とか生計を立てている方は本当に気の毒だ。同じ講義をいきなり異なる3つの言語でやれ、と言われているようなものだ(正規教員と同一労働同一賃金にして欲しい)。
学生から非難囂々の「課題型授業⇒課題を紙1枚で出してレポートを求め、教員不在」にしたくなる気持ちもわかる。そんなものに高い授業料を払えるか!という学生に聞きたい。「君達はいつからそんなに学習意欲があがったんだ?」
偏見だが、課題型授業だって見方によれば究極の自主性自分で考えるチカラを求める教育だ。その対応の仕方だって無数だ。がっつり読書して仕上げるも良し、適当にやって稼いだ時間を他の勉強や部活や趣味にあてたって良いし、何をするにも自由だ。それが「学生」というものだ。学び方まで全部求めるのは「生徒」だ。
いつかわかる。「コロナ禍には、自由な時間があったなあ」と。
就職したら同じことを気づかされるだろう。社会に出て働くと、如何に学生時代に時間があったのか、と。「戻っておいて私の時間」そんな歌が昔にあった。
徐々に以前の形態に大学は戻っていくだろう。でも、この厳しい時代の体験は無駄なことばかりではない。自分を取り戻せる機会も多い。昨晩の講演でも話した。「悲観は気分、楽観は意志」。そんな先哲の知見を紐解くのも今だからできることだ。
そして、線路は続くよどこまでも。